不正行為の対価

「お金はただ単に持つか持たざるかだ」と思っている人は、ただ自分にお金が入ってくればいいとだけ思っています。そういう考え方ですと、不正な手段であろうがなかろうが、とにかく少しでも多くのお金を手にしようとします。

人はみな大なり小なり不正にお金や物を手にしたことがあるのではないでしょうか。例えばレストランやホテルの備品を持ち帰るとか、拾ったお金をポケットにしまいこむとか。たとえどんなにささやかな不正でも積み重ねればいつか大きな不正になります。

「類は類を呼ぶ」という法則により、不正で得たお金は、悪の波動を引き寄せお金の苦しみと困難を生みます。

昔にパン一つ盗んでも、いつまでも心からその罪の思いが消えないで、引きずっている人もあれば、何百万も不正に入手してもさほど気にもせず過ごしている人もいます。罪の意識は人によって大きく違いがあります。人間性の違いです。

罪や不正への心の負担は、人によって許容量が違うと思うんです。些細な不正でも自分の良心の許容量を越えるほど重ねると、その人の生活環境に苦しみや困難として現れてきます。

人によって罪や不正への許容量の違いはどこから来るのでしょうか。どのくらいの間違いを犯したら自分の環境へ苦しみや困難が訪れるかといいますと、それは、その人の人格的進歩、向上の程度によって違いが出てきます。

人格的な高さに到達している人には、小さな不正でも、それに対する反応(結果)が速やかにその人の環境に現れ、人格的にまだまだ未熟な人ほど不正の結果がなかなか現れず、大きく蓄積されてから、それ相応の反応(結果)で現れます。

私たちは、自分を取り巻く環境に現れた苦難で、その罪をつぐない、またその苦難でそれを起こした自分の過ちに気づきます。「あ~これは、あの時の間違いの結果なのだな」ということがわかります。これが人生の「気づき」という私たちの進歩、向上のためのはたらきです。

ジェームス・アレンの言葉

(自分の行いや思いの数々を観察し、それらが自分の人生環境にどのような影響を及ぼすものなのかを入念に分析したならば・・・自分のあらゆる体験の「原因」と「結果」を結びつけたならば・・・「人間は自分の環境と運命の設計者である」という真実に必ず行き着くことになるでしょう)

お金で苦しみ、困難が常に伴う人は、過去にお金にまつわる不正をしてこなかったか自分を顧みる必要があります。苦しみや困難から抜け出す正しい解決法は、過去の償いと、善きことを行うことです。償いは当事者でなくても、社会へ寄付などでも償えます。

やがて自分の行ってきた不正に見合う清算が訪れ、苦しみ困難から解放される時がきます。

自分の生き方、考え方が正当な場合、豊かさを生きるのは本来の姿なのです。

● 奪う者は奪われ、与える者は与えられる。

これは普遍の真理です。

「お金は生きている」という言葉の実感は、この人生経験の中で感じることができます。

今、奪うという行いをした人は、今後のあなたに苦しみと困難が訪れると覚悟をしましょう。

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