清貧礼賛の間違い

貪欲で欲張りであることが人として正しいこととは思えません。美しくもありません。ですがその反動として「清貧こそ人として立派な生き方だ」という清貧礼賛の考え方が正しいとも言えません。

もしお金持になるより、貧しくても美しい生き方が称賛されるなら、世の中の商品は、安物ばかりの品物であふれます。それが素晴らしい社会でしょうか?

もし人類が豊さを求めないで、清貧、清貧と貧乏暮らしに甘んじていたなら、高度な文化や文明は発達しないでしょう。誰かが高度な性能の車を求めるから、誰かが高級な織物の衣装を求めるから日々刻々車は進歩し、繊維製品は発展していきます。より贅沢品を求める人がいることで、商品はより豊かに発展し、次から次へと供給されてきます。

確かに金銭的欲望に振り回されている日々より、小川を流れるせせらぎの音、朝目覚めたときの小鳥のさえずり、平穏な一日が終わりに近づいたときの夕方の穏やかな陽ざし…これらは私たちにお金には代えがたい幸せ感を与えてくれます。

でも私たちは生きて生活をしていますから金銭は必要不可欠です。清貧に甘んじ、狭く薄汚れた家で過ごすより、住みたい地で、住みたい家で生活すべきです。人として生まれた以上、自分の望むべき生活をすべきです。

そのためにはお金を稼ぐという生き方はとても人として大切です。もちろんお金に関係しない生き方もとても大切ですが、清貧礼賛の考えは一面に正しさを表しているとはいえ、決してそれを生きる目標にすべきではありません。

私が貧しかったから言えるのですが、一般に貧しい人は、「与えること」「出すこと」を嫌がります。乏しいものがさらに乏しくなると思っているからです。だから貧しいのです。経済的に貧しいだけではなく、心が貧しいのです。

与える力、出すことの出来る力を持った人が増えれば、社会はより豊かになっていきます。お金をたくさん稼ぐ人が増えれば、社会はより豊かになっていきます。

「貧しくても心が豊かであればいい」を貧しさの言い訳にしないで、人として生まれたのですから「豊かな生活で豊かな心を」を目指すべきです。

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